友達が欲しいからグループに所属する。ありのままの自分を否定し、自分自身の価値を低評価する。
部活みたいなものだ。同じ部活=同じ属性=Vtuberだから友達でしょっていう奴だ。
ありのままの自分という言い方を分かりづらいので言い変えたい。俺の考える「ありのまま」を説明する。
少しずつ何かに努力したり、頑張ったりする人が着飾らない、フラットな状態で付き合える状態。理想の状態の一つだと思う。これは当然の状態ではなく理想だ。
例えば、仕事の関係は「成果」がなければならない。
ありのままの状態で付き合える友達は最高だろう。
Vtuber仲間は友達だろう。
では、Vtuberファンはその友達だろうか? 違うのだ。
無理なのだ。youtubeの活動でファンが出来る。そのファンも友達、友達に準ずるものである。
登録者、再生数マウント
「あいつは登録者数が少ないくせに」
面白さマウント
「つまらないくせに」
<性格が悪い、陰で悪口を言ったり攻撃する人は流石に駄目だが。
これはマウントじゃなくて、友達がクズになって欲しくないって感情は普通だと思う。>
これはまるで仕事での成果を求められる関係みたいだ。友達にそんなものを求めない。上でも書いた人の良さと話が合うかだろう。
これはプロ扱い、期待があるって表れなので全てが悪い訳じゃないが、それを本人だけでなくコラボ相手にも求める事になるのがやっかいだろう。
そして、互いのファン同士で喧嘩し出したりするなんてこともあったりと、いちいちファンから「Vtuberの友達」について、文句が言われる状態になるのだ。人の好さとか以外に面白さや再生数、登録者数を評価される。友達を評価するのはある。スポーツが得意、何が得意とか、相手の得意分野は情報として有用だろう。会話にも役立つし。youtubeの数字はあからさまなのだ。そして、人は嫌でも意識をしてしまうのだ。
キャラクターの存在が動画や配信者という側面をより強くしている気がする。
俺は普通の人間なので、動画を投稿しようと生放送しようとそれは単なる一面と片付ける事も出来る。
キャラクターは、キャラクターにそった動きを求められるし、日常が想像しにくい。
高校生のキャラは高校に通って勉強をしているし、お昼にはお弁当を食べるかもしれない。
でも、それは日常ではなく、物語の中の一場面になる。そうではないが、そう認識させやすくしている。
プロを意識させやすい面は多分にある。
友達欲しいからVtuber始めました、は非能率的であると俺は考えるのだ。